建築家は、住まい手には分からないような細かなところまでこだわっている。
そんなふうに言われることがあります。
それは違う、という話をします。
たしかに私は、すべてをすぐに住まい手に理解してもらおうとは思っていません。
むしろ、すぐには理解しきれない余地を残して設計しています。
なぜこの窓はこの大きさなのか。
なぜこの天井高で、なぜこの素材なのか。
その一つひとつを説明することが、
本当の意味で、建築を理解してもらうことにつながるわけではないからです。
建築には、数え切れないほどの判断があります。
光、影、動線、視線、空間のつながり。
そのすべてが重なり合い、最後に一つの建築として立ち現れる。
そのとき、細かな理由までは分からなくても、
なぜか落ち着く。なぜか美しい。なぜか、ここにいると心地よい。
そんな風に、最初は住まい手が「何かが違う」と感じれば、
それでいいと、私は思っています。
なぜなら、その「なぜか」の正体は、
暮らしていく中で少しずつ見えてくるからです。
住み始めた頃には気づかなかったこと。
それが、数年後に分かる。
あるいは、10年経って、初めて設計の意図に気づくこともあるでしょう。
私は、そこに本物の価値があると思っています。
出会った瞬間、完成した瞬間に、
すべてが理解できるものは分かりやすい。
けれど、ハッキリ言いましょう。
薄っぺらいのです。
分かりやすさと深さは、当然、同じではない。
一度見ただけで意図も価値もすべて理解でき、
それ以上の発見が残されていないものが、
本当に豊かなものなのでしょうか?
本物と呼べるものは、
むしろ、簡単には測りきれない奥行きがあるものだと、私は思う。
つまり、本物とは、
出会うと、二つの時間がはじまるものだと信じているのです。
自分が成長することで、その価値に気づいていく時間。
そして、そのものと過ごすことで、自分自身も育っていく時間です。
この話は、建築だけに留まりません。
家具でも、芸術でも、焼き物でも、音楽でも同じでしょう。
長く残り続けているものを前にして、
初めて触れた瞬間から、
その価値のすべてを理解できる人などほとんどいません。
最初は、なんとなく惹かれる。
なぜ良いのか、自分でも分からない。
場合によっては、最初は良さすら分からない。
それでも、なぜか手元に置いておきたくなるものがある。
そして、それに長く触れ、さまざまなものを見て、
自分自身が経験を重ねていくと、
あるとき突然、
「こういうことだったのか」
と気付く瞬間が訪れる。
そのもの自体は、何も変わっていません。
変わったのは、自分のほうです。
自分自身が、その価値に気付けるところまで、追いついた。
私は、それこそが本物を持つ価値だと信じています。
つまり、
本当に良いものの価値は、
ただ所有欲を満たすだけでも、
機能を満たすだけでも、見た目を楽しむだけでもありません。
長く触れているうちに、
見る目を変え、感性を育て、
それまで気づかなかったものに気づけるようにしてくれる。
一度、本当に良いものを知ってしまうと、
それまで同じように見えていたものが、
同じようには見えなくなることがあります。
単に役割を果たすためのものと、
自分の人生そのものを豊かにしてくれるもの。
その違いが、少しずつ分かるようになるからです。
住宅こそ、そういう存在であってほしいと私は願っています。
なぜなら、住宅は何十年という人生を受け止め続けるものだからです。
そもそも、家を建てる瞬間が、
その人の人生の完成形であることなど、ほとんどありません。
30代で家を建てれば、
その後には40代、50代、60代が続いていきます。
仕事の経験も増えるでしょう。
さまざまな人と出会い、
良いものを見て、ときには失敗もしながら、
自分なりの価値観をつくっていく。
知識も増えます。経済的な余裕も変わる。
当然、物事を見る目も変わるでしょう。
10年後の自分は、今の自分より多くのことを知っているかもしれない。
20年後なら、なおさらです。
にもかかわらず、
家を建てるその瞬間の自分が理解できるものだけを集めて、
住宅を完成させてしまっていいのだろうか。
断言します。私は、そうは思いません。
建てた瞬間の自分にぴったり収まりすぎた家は、
10年後、20年後の自分にとって、
物足りないものになってしまうかもしれません。
家には、今の自分を少し超えている部分があっていい。
今はまだ理解できないものや、
使い切れない奥行きが残っていてもいいと思っています。
10年後の自分が気づくことがあり、
20年後の自分がようやく理解できることがある。
そのくらいの余力を持っているほうが、
長く暮らす住宅としては、ずっと豊かです。
時間が経ったときに、
この家は、ただ便利なだけではなかった。
ただ格好良かっただけでもなかった。
自分たちの暮らしを、
もっと深いところで支えていたのだと気づく。
私は、そんな住宅をつくりたいと思っています。
こういった話をすると、
そんなに立派なものをつくっているのか、
と思われるかもしれませんが、そういう話でもないのです。
私の設計するものが、立派かどうかは知りません。
そこに自分の責任は置いていない。
ただ、私はこれまで世界中の名建築を見てまわり、
学び、考え、設計力を磨いてきました。
そのすべてを、一棟の住宅に対して出し惜しみしない。
考えられるところまで考える。
自分が持っているものを、できる限り注ぎ込む。
そこには、責任を置いています。
私の人生を注ぐことが、私にできる設計だからです。
本物と呼ばれるものには、
つくり手の人生そのものが込められています。
単に技術が優れているとか、素材が高級だとか、
見た目が美しいということだけではないのです。
つくり手が、何を美しいと思ってきたのか。
何に違和感を持ち、何を学び、何を捨ててきたのか。
その人が長い時間をかけて積み重ねてきた判断や価値観が、
最後に、形となって表れる。
だから、本物は簡単には説明し切れない。
一言では説明し切れないほど、多くのものが込められているのです。
住宅も、そういうものであってほしい。
少なくとも私は、そうなるようにつくっています。
完成した瞬間が価値の頂点になる家ではなく、
10年後にも良いと思え、
20年後にはまた違う理由で良いと思える家。
そして、
30年経っても、まだ発見が残っている家。
その価値は、依頼主だけで終わらないでしょう。
その家で育った子どもは、
幼い頃には何も分からないかもしれません。
けれど、大人になり、さまざまな場所へ行き、
多くの建築や家具に触れ、
自分自身の暮らしを持つようになったとき、
ふと気づく。
自分は、ずっとこんな空間の中で育っていたのか、と。
子どもの頃には当たり前だった、
光や素材、空間の広がりや静けさが、
実は当たり前ではなかったことを知る。
それは、言葉では教えられない一つの教養だと思っています。
良いものを見分ける感覚。
美しいものに気づく力。
暮らしを大切にする感覚。
そうしたものは、説明されなくても、
長い時間をかけて人の中に残っていく。
そして、
そうした感覚こそ、人生の豊かさをつくるものの一つだと、
私は信じています。
住宅は、資産だけを次の世代へ残すものではありません。
感性も、美意識も、暮らしに対する価値観も残すことができる。
私は、建築にはそれだけの力があると信じています。
本物は、時間を超えて響く。
その価値は、完成した日にすべて理解される必要はない。
むしろ、人が生き、経験を重ね、
自分自身が変わっていくほど、
その価値が少しずつ深く見えてくる。
今の自分だけに届くものではなく、未来の自分にも届くもの。
そして、自分の先に生きる人にも、何かを残せるもの。
私は、そんな建築をつくりたいと思っています。
2026年9月3日
設計事務所 Tabi
和田 貴裕
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